森 鴎村(もり おうそん、1831年(天保2年) - 1907年(明治40年)1月20日)は、幕末期ならびに明治期の儒学者。下野国都賀郡藤岡村(現・栃木県栃木市藤岡町藤岡)の名主森邦治の長男として生まれる。諱は保定(やすさだ)で字は士興(しきょう)。幼名は定助、のちに定吉(さだきち)と改め鴎村と号した。
幕末に名主職を免ぜられ、抗議したところ9年投獄された。そののち昌平黌に入って勉学した。維新当時の儒者で名をはせた川田 甕江、重野安繹、依田學海、岡鹿門 1)などはみな同窓である。
鴎村学舎では、磐城セメント(のちの住友セメントの創業者の一人、日本製粉・東京ガスの社長を務めた実業家の岩崎清七(いわさき せいしち、1865年12月18日(元治元年12月18日) - 1946年(昭和21年)4月11日)、栃木県におけるビール麦栽培の基礎を作り大平水代村長もつとめた田村律之助が門下生であった。
間々田で私塾 蒙求堂(のち修道館さらには間々田尋常小学校)を開いた田口妙斎(1807-1884)とも親交があったようである。
昌平黌で藤森弘庵・安積艮斎から儒学の教えを受け、藤岡で鴎村学舎をひらく。歴代の県令より県政について諮問を受け、師範学校にも招かれたが固辞した。
森鴎村は自身の経験から、「青年の立身は片田舎において、どんな学問をしても偉くなれるものではない。東京に出てよい先生のもとで切磋琢磨すべきである。」と常に激励していた。 2)
1907年(明治40年)1月20日に死去。享年77。
著作には雑誌「文明新誌」を刊行した。ほか「変人伝」などの作品がある。
1) 昌平黌で同窓であった岡千仭(号は鹿門)(おか ろくもん、天保4年11月2日(1833年12月12日) - 大正3年(1914年)2月28日)は東京芝愛宕下の仙台屋敷内に綏猷堂(すいゆうどう、明治4年開塾)という漢学塾を開き、そこに塾僕でを務める片山管太郎(片山潜)がいた。学力は相当上位を占めていた彼は、先生の代理で講義するほどであった。片山は岩崎の推薦で一時鴎村学舎の塾僕を務めた。
2) これに刺激を受けた岩崎清七、片山潜は渡良瀬川から通運丸に乗り、東京に出て近藤塾(攻玉社)に入学、さらに福澤諭吉の力を借りてアメリカへと留学している。(「欧米遊蹤」 岩崎清七 著)